在宅勤務の昼休みに郵便物を取りに出ようとして、井上は玄関のドアを開けたところで足を止めた。
ドアの横に小さな植木鉢が置いてある。
素焼きの、手のひらに乗るくらいの鉢だった。中の土から緑の芽が一本だけ出ている。まだ何の植物なのか分からない頼りない芽だ。花でもないし宅配便の荷物でもない。メモも札もついていない。
誰かが部屋を間違えたのだろうと井上は思った。同じフロアには五つ部屋がある。隣の誰かが買ってきて、うっかり置き場所を間違えたのかもしれない。井上は鉢を持ち上げて、廊下の突き当たり、非常階段の脇あたりに移した。日も当たるし置き忘れた本人も気づきやすいだろう。
そのまま昼を過ぎて、夕方には忘れていた。
翌日の朝、ゴミを出しに玄関を開けると鉢はまた同じ場所に戻っていた。
井上は少し首をかしげた。ドアの横、昨日とまったく同じ位置だ。持ち主が「ここが自分の家だ」と思い込んでいるのだろうか。井上は今度はエレベーターの横にある小さな棚の上に鉢を置いた。ここなら誰の目にもつく。落とし物として気づいてもらえるはずだ。
次の朝、鉢は玄関の横にあった。
さすがに少し変だと思った。誰かがわざわざ運び直している。それも井上の部屋の前を選んで。
とはいえ怖いという感じではなかった。芽はあいかわらず一本きりで、鉢は素朴で、どう見ても悪意のあるものには見えない。嫌がらせにしては地味すぎるし、井上に何か害があるわけでもない。ただ分からなかった。
その日の午後、下の階でエレベーターに乗り合わせた管理人に井上は聞いてみた。六十くらいの、いつも同じ帽子をかぶっている男だ。
「あの、うちの階に植木鉢が置いてあるんですけど、あれ誰のか分かります?」
「植木鉢?」管理人は少し考えた。「さあ。私は置いてないですけどね。誰かが共用部に物を置いてるなら、貼り紙しときましょうか」
「いや、そこまでは。ちょっと気になっただけで」
「まあ、そのうち片づくでしょう」
管理人はそれ以上興味がなさそうだった。井上もそれで引き下がった。わざわざ騒ぐほどのことでもない。
隣の部屋の住人にも、廊下で会ったときにそれとなく聞いてみた。若い夫婦で、奥さんのほうが「うちのじゃないですね」と笑って言った。反対隣は留守がちで、めったに顔を合わせない。それ以上調べる気にはならなかった。誰の鉢なのか突き止めたところでどうということもない。
そのうち井上は鉢を動かすのをやめた。
動かしても戻ってくるなら放っておけばいい。玄関を出るたびにそこにあるので、だんだん見慣れてきた。というより朝ドアを開けたとき、まず鉢を見るようになっていた。
芽は少しずつ伸びていた。
最初は一本だけだったのが、脇から小さな葉が二枚出ていた。数日すると、その葉がもう少し大きくなった。井上は自分の物でもないのに、その育ち具合をなんとなく覚えていた。昨日より確かに背が伸びている。
真夏の暑い日が続いた。
ある朝、井上はしゃがんで鉢の土を見た。乾いて白っぽくひび割れている。指で触れるとさらさらと崩れた。これはまずいんじゃないかと思った。この暑さで水をやらなければ芽は枯れてしまう。
自分の物ではない。触らないほうがいい。そう思いながら井上は部屋に戻ってコップに水を汲んできた。
少しだけ、と思って土にかけた。乾いた土が水を吸って色が濃くなった。ついでにもう少しだけかけた。
それからは、朝ドアを開けて土が乾いていたら水をやるようになった。相変わらず誰の鉢か分からないままだ。でも目の前で枯れられるのも寝覚めが悪い。井上はそういう理屈をつけていたが、たぶん理屈はどうでもよかった。ただ育つのを見たかった。
葉は増え、茎はしっかりしてきた。何の植物かは井上には最後まで分からなかった。園芸には詳しくない。ただ青々とした葉を見ていると悪くない気分になった。
八月の終わりごろ、蕾がついた。
小さな白っぽい蕾だった。数日かけて、それは膨らんでいった。井上は朝、水をやりながら、今日あたり咲くかもしれないと思った。
翌朝、花が咲いていた。
白い、五枚の花びらの、地味だが整った花だった。名前は分からない。井上はしばらくしゃがんでそれを見ていた。仕事の時間になって、名残惜しく立ち上がった。
その次の朝。
ドアを開けると鉢がなかった。
玄関の横、いつもの場所がからんとしていた。水をやろうとコップを持って出た井上は、少しの間そこに立っていた。土の跡も何も残っていない。まるで最初から何もなかったみたいだった。
誰かが持っていったのだろう。ずっと運んでいた誰かが、花が咲いたのを見て引き取っていったのかもしれない。そう考えれば筋は通る。通るのだが、井上はなんとなくコップの水を持て余した。
管理人にも隣の夫婦にも、もう聞かなかった。聞いたところで分からないだろうし、分かってしまうのも少し違う気がした。
それから数日後、ゴミ捨て場の帰りに、井上はマンションの裏手を通った。ふだんは通らない、自転車置き場の奥のあたりだ。
コンクリートの塀の際に、白い花がいくつか咲いていた。
あの鉢の花と同じ花だった。誰かが植えたのか種が飛んだのか、そこだけ何株かまとまって日を浴びていた。井上は少し立ち止まってそれを見た。あの鉢がここにあるのかとも思ったが、素焼きの鉢は見当たらなかった。ただ地面に花が咲いているだけだった。
井上は部屋に戻った。
今でも朝ドアを開けると、玄関の横をちらっと見る癖が残っている。もう何も置かれていないと分かっているのに、つい目がいく。何もない場所を確認して、それから郵便受けへ向かう。それだけのことだった。

