朝、机の上に付箋が一枚貼ってあった。
「これ、任せます」
それだけだった。字は片山さんのものだ。角がなくて少し丸い、いつもの字。付箋の下には、週次の集計に使う資料が置いてある。
昨日までこの集計は片山さんの仕事だった。俺はその横でデータを拾ってきたり数字を打ち込んだりする補助をしていた。最後にまとめて確認するのはいつも片山さんで、俺は途中までしかやったことがない。
任せますと言われても、正直どこまでを任されたのか一瞬分からなかった。
入社して一年ちょっと。事務系の部署で、仕事にはだいぶ慣れたつもりでいたが、それは片山さんが最後に見てくれるという前提があってのことだったと、付箋を見て気づいた。急に足元が薄くなった感じがした。
片山さんの席を見ると、朝から外出の予定でもういなかった。
とりあえず座って資料を見た。やること自体は分かる。各課から上がってくる数字をまとめて、決まったフォーマットに落とし込んで、夕方までに部長へ回す。何度も横で見てきた作業だ。難しくはない。ただ、今まで一度も自分で最後までやったことがないというだけだ。
午前中いっぱいかけて数字を集めた。
三課からの提出がまだ来ていなかったので内線でお願いした。相手はいつもの人で、すぐに送ってくれた。こういうやりとりも、これまでは片山さんがやっていた。自分で電話をかけながら、なんだか妙にかしこまってしまった。
昼過ぎ、数字が全部そろった。
打ち込んでいくうちに、一か所、合計が合わない箇所が出てきた。何度見直しても、部署ごとの数字を足したものと全体の数字がずれる。
ここで片山さんに聞きたくなった。スマホを取り出しかけてやめた。外出中にこの程度のことで電話するのもどうかと思ったし、そもそも「任せます」と書いてあるものを、いきなり確認したくなかった。
もう一度、最初から数字を追った。
三課からもらったデータの中に先月分が一行まぎれていた。それを今月分として足していたから合計がずれていたのだ。見つけたときは、ほっとするより先に、危なかったと思った。あのまま出していたら、そのまま部長のところへ間違った数字が行っていた。
直して、合計が合った。
夕方、片山さんが戻ってきた。俺はまとめた資料を印刷して片山さんの席へ持っていった。
「あの、集計、これでいいか見てもらえますか」
片山さんはプリントを受け取って、少しの間、目を通していた。ペンで数字を上から追っていく。俺はその横でなんとなく落ち着かなかった。
「ここ」
片山さんが一か所を指した。
「合計は合ってる。けど、この並び、課の順番が去年と違う。部長これ順番で見る人だから、そろえといて」
「あ、はい」
それだけだった。ずれていた数字のことは、たぶん気づかれていない。自分で直したから、そこはもう間違っていない。指摘されたのは並び順という、本当にそれだけのことだった。
「あとは大丈夫。直したら出しといて」
片山さんはそう言って、もう自分の作業に戻っていた。よくやった、とも、初めてにしては、とも言われなかった。普通に、次の指示だけがあった。
俺は席に戻って並び順を直した。
出す前に、もう一度だけ全体を見た。数字も並びも、たぶん大丈夫だ。印刷して部長の机に置いた。部長は電話中で、こっちを見もしなかった。それで終わりだった。
拍子抜けするくらい、何も起きなかった。
でも帰りの電車で、なんとなく今日のことを思い返していた。合計がずれたとき、聞かずに自分で見つけたこと。並び順を直したこと。大したことじゃない。大したことじゃないけど、昨日までの自分なら、たぶん最初のずれの時点で片山さんに電話していた。
その週は雨ばかりだった。傘が乾かなくて、毎朝じめじめした柄を握って出社した。
翌週の月曜。
机の上に集計用の資料が置いてあった。先週と同じものだ。
付箋はなかった。「任せます」も、何も書いていない。ただ資料が置いてあるだけだった。
俺は少しだけそれを見て、それから座ってパソコンを立ち上げた。三課はまた提出が遅いかもしれないから、先に内線をかけておこう。そう思いながら数字を集め始めた。
窓の外はまだ降っていた。

