八年間、誰も直さなかった引き出し

共有の書類棚の、下から二番目の引き出し。それを開けようとして、今日もいつものように引っかかった。

森田は特に何も思わず、引き出しを少し持ち上げ、右へ数ミリずらして、もう一度引いた。すると、すっと開く。もう体が覚えている動きだ。必要な伝票のファイルを取り出して、閉めた。

近くでコピーを取っていた若手の吉川が、それを見て言った。

「それ、壊れてるんですか?」

去年入ったばかりの子だ。

「いや。こうやったら開くんだよ」

森田はそう答えてから自分でも少し変だなと思った。こうやったら開く、というのは、裏を返せば、普通には開かないということだ。

その引き出しは、もう何年も前から開けにくかった。森田がこの物流会社に入ったときには、すでにそうだった。事務所の全員が知っている。知っているし、それぞれ開け方の癖がある。

森田は右へずらす。経理の田村さんは、少し押し込んでから引く。いちばん勤続の長い五十代の斉藤さんは、勢いよく一気に引き抜く。誰も、直そうとは言い出さない。理由は単純で、一応、開くからだ。

「直さないんですか?」と吉川が聞いた。

「まあ、そのうちな」

森田はそう言って、席に戻った。そのうち、というのは、たぶん一生来ない。この八年、誰も直さなかったんだから。

ところが、その日の午後、また引き出しが引っかかった。

いつもの手順でずらせば開くのだが、森田はなぜか、少し気になった。朝、吉川に「壊れてるんですか」と言われたのが、頭に残っていたのかもしれない。開けにくい引き出しを、開けにくいまま、八年も使ってきた。それって、どうなんだろう。

森田は少し時間があったので、中のファイルを全部出してみた。

引き出しを空にして、覗き込む。レールに沿って、指でなぞってみると、奥のほうで何かが引っかかる感触があった。手を伸ばして取り出すと、古いクリップが一つと、いつのものか分からない小さなラベルが、レールの端に挟まっていた。

たぶん、これだ。

森田はそれを取り除いて、ファイルを戻し、引き出しを閉めた。それから、もう一度引いてみた。

すっと開いた。持ち上げなくても、ずらさなくても、普通に。

「……開いた」

当たり前のことなのに、なんだか妙な感じがした。八年間、右へずらしてきた。その動作がたった今いらなくなった。クリップ一個とラベル一枚。それだけのことだった。

しばらくして、斉藤さんがその引き出しを開けようとした。

いつもの癖で、勢いよく一気に引き抜こうとして、抵抗なくすっと開いたものだから、その勢いで、少しよろけた。

「え、なにこれ」

斉藤さんが引き出しを見た。

「あ、それ、さっき直しました」と森田が言った。

「直したの? なんか、気持ち悪いわね」

斉藤さんは、開いた引き出しを、不服そうに何度か開け閉めした。何年も体で覚えていた開け方が、急に不要になって、逆に調子が狂うらしい。その気持ちは、森田にも少し分かった。田村さんも同じで、押し込む動作をしてから、あれ、という顔をしていた。

数日すると、みんな普通に開けるようになった。

というより、もう誰も、特別な開け方をしなくなった。持ち上げる森田も、押し込む田村さんも、勢いをつける斉藤さんも、いつの間にか、ただ普通に引くだけになっていた。

面白いのは、吉川だった。あの子は、最初から普通の開け方しか知らない。だから、直っても直らなくても、何も変わらない。自分たちが何年もかけて身につけた妙な技を、吉川は一度も覚える必要がなかった。

森田は、なんだかおかしかった。開かない引き出しの開け方、なんていう技術を、みんな真剣に体で覚えていた。吉川だけが、それを知らずに済んでいる。

それからしばらく経った、ある日。

森田はまた、その引き出しを開けようとした。手が、無意識に、少し右へずらそうとする。八年の癖は、そう簡単には抜けない。

途中で、あ、と気づいて、普通に引いた。

普通に、開いた。

森田は一人で少し笑った。それから、伝票を取り出して、席に戻った。

戻る途中、隣の書類棚の扉が、少し閉まりにくくなっているのに気づいた。半分あたりで、一度引っかかる。森田はそれをちらっと見て、少しだけ考えて、それから今日はそのまま、席に着いた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です