初めての美容室で「いつも通り」

椅子に座ると、鏡越しに美容師が言った。

「今日もいつも通りでいいですか?」

一瞬、返事に詰まった。

いつも通りも何も、この店に来るのは今日が初めてだ。引っ越してきて、前まで通っていた店が遠くなったので、家の近くのこの美容室に飛び込みで入っただけだ。今日が一回目。いつも通りの髪型なんてこの人が知っているはずがない。

そういえば、入ったとき名前も聞かれなかった。ちょうど予約の時間だったらしく、「お待ちしてました」という感じで、そのまま椅子へ案内された。今思えば、あの時点で何か嚙み合っていなかった。

そう思ったのに、口からは反射的に出ていた。

「あ、はい」

言ってしまってから、しまった、と思った。今のは、訂正するタイミングだった。でも美容師はもう「じゃあ、やっていきますね」とケープを広げている。今から「実は初めてなんです」と言うのも、なんだか変な空気になりそうだった。

いつ気づくかな、と思いながら、施術が始まった。

美容師は三十歳くらいの男の人で、髪を切りながら鏡越しに気さくに話しかけてくる。

「前より、ちょっと伸びましたね」

「あ、そうですね」

伸びたも何も、この人は俺の前の髪の長さを知らないはずだ。でも「そうですね」と返してしまった。だって、髪はたしかに、前回散髪したときよりは伸びている。嘘ではない。

「今回も、横は短くします?」

「……そうですね、はい」

前回どうだったのか知らないので、合わせるしかない。というか、横を短くするのは、まあ、普通に悪くない。俺は曖昧にうなずいた。

はさみが動いていく。美容師は、俺が誰か別の常連客だと完全に思い込んでいる。

「前回、けっこう短くしましたもんね」

知らない。俺は心の中でそう思いながら、「ですね」と言った。

「お仕事、忙しいって言ってましたけど、あれから落ち着きました?」

これは、困った。俺は忙しいなんて、この人に言った覚えはない。ただ、実際、仕事はそれなりに忙しい。だから、

「まあ、ぼちぼちです」

と答えた。すると美容師が「よかった、無理しないでくださいね」と言った。なぜか、話が微妙に合ってしまう。合ってしまうから余計に「人違いですよ」と言い出しにくくなる。

こうなると、もう引き返せなかった。

俺は、自分ではない誰かの人生に、少しずつ話を合わせている状態になっていた。前回短くした、仕事が忙しい、その誰かの設定に、「そうですね」「まあ」「そんな感じです」で、なんとか合わせていく。積極的に嘘をつくわけではない。ただ、否定もしないだけだ。

「じゃあ、前回と同じ感じで仕上げますね」

前回の髪型を、俺は知らない。どうなるのか分からないまま、はさみに任せるしかなかった。

途中で鏡を見ると、これが、意外と悪くなかった。

サイドが短くて、全体もすっきりしている。前の店で切ってもらっていたのより、むしろ今風というか、似合っている気がする。もうこれでいいか、と思い始めた。人違いだろうがなんだろうが、仕上がりがいいなら、文句はない。

仕上げに近づいたころ、美容師がカルテらしきものを手に取った。

「確認なんですけど、お名前、山下さんで合ってますよね」

俺の名前は、山下ではない。

「……いえ、中村です」

美容師の手が止まった。鏡の中で、目が点になっている。

「あれ? ……あれ、初めてでした?」

「はい。今日、初めてです」

「えっ」

美容師は、カルテと俺の顔を、何度か見比べた。それから、状況をようやく飲み込んだらしく、はあ、と息をついた。

「すみません! 山下さんっていう常連さんが、雰囲気そっくりで。予約もちょうど同じくらいの時間で、てっきり」

よく似た常連客がいた。それだけだった。

「最初に言ってくださいよ」と美容師が笑った。

「いや、言うタイミング、逃しちゃって」

「途中でおかしいと思わなかったんですか」

「思ってました。ずっと」

美容師は声を出して笑った。俺も、なんだか気が抜けて笑った。あれだけ「そうですね」で乗り切ったのが、全部人違いの上での会話だったわけだ。

「でも」と美容師が鏡を指した。「この髪型、結構似合ってますよ」

言われて、あらためて鏡を見た。たしかに、悪くない。山下さんの、いつものスタイルらしいが、俺にもちゃんと似合っていた。

「じゃあ、これで」

俺は結局、その髪型のまま、会計をして店を出た。

数週間して、髪が伸びてきたので、また同じ店へ行った。同じ美容師が担当だった。

「中村さん、いらっしゃい」

今度は、ちゃんと名前で呼ばれた。椅子に座ると、美容師が鏡越しに聞いてきた。

「今日は、いつも通りでいいですか?」

俺は少し考えて、答えた。

「今度は、本当にいつも通りで」

美容師が、ふっと笑って、はさみを手に取った。

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