関係者通路を抜けて会場に出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
でかい。客席がぐるりと囲んでいて、天井が高い。まだ誰もいない客席が、ずらっと空のまま並んでいる。ステージでは機材の設営が進んでいて、人が何人も動いている。俺は初めてここに入った。
武道館って、本当に武道館なんだな、と思った。自分でも意味が分からない感想だった。テレビで名前は何度も聞いたことがあるし、あの独特の屋根の形も知っている。でも実際に中に立ってみると、知っているつもりだった場所が、急に本物として目の前にある感じがした。
俺はイベント関係の会社に勤めていて、今日は仕事でここへ来た。出演するわけではない。裏方の一人だ。それでも、初めての武道館というだけで、少しテンションが上がっていた。
スマホを取り出して、妻の奈緒にメッセージを送った。
「今、武道館」
送ってからちょっといい気分だった。奈緒はこういうの、興味を持つほうだ。すごいじゃんとか、写真ないのとか、そういう反応が来るだろうと思った。
数秒で返信が来た。
「帰りに牛乳買ってきて」
俺はしばらく画面を見た。
武道館、と送った。牛乳、と返ってきた。会話が、まったく噛み合っていない。もう一度打ち直した。
「いや、今、武道館なんだけど」
「知ってる」
知ってて牛乳か、と思った。続けて、もう一件来た。
「あと卵」
俺はスマホをしまって、仕事に戻った。設営を手伝いながら、ときどき客席のほうを見る。ここが人でいっぱいになったら、たしかにすごい光景になるんだろう。有名な人が、あのステージに立ってきたわけだ。そう思うと、なんとなく背筋が伸びる。
同僚の田口さんが、機材を運びながら聞いてきた。
「加藤くん、武道館は初めて?」
「初めてです」
「あー、最初はちょっとテンション上がるよね」
田口さんはもう何度も来ているらしく、特に感動した様子もなく、淡々と配線をまとめていた。俺だけが、少し浮かれている。まあ、初めてなんだから仕方ない。
作業の合間に、また奈緒からメッセージが来た。
「ティッシュも、もしあったら」
武道館にいる俺のスマホの中で、牛乳と卵とティッシュが並んでいる。今日という日の重要事項が、完全にスーパーの買い物リストになっていた。
夕方になって、少しだけ手が空いた時間があった。
俺は客席の端のほうから、まだ誰もいないステージを眺めた。照明が入り始めて、空っぽの客席に光が回っている。人生でこの景色を見ることは、たぶんそう何度もない。
奈緒に送った。
「今ステージ近く」
すぐ返ってきた。
「牛乳は低脂肪じゃない方ね」
俺は一人で少し笑ってしまった。こっちはステージの近くにいて、向こうは牛乳の種類を指定してくる。どっちも本当のことだった。
夜になって、公演が始まるころには、俺たちの仕事はだいたい終わっていた。
外に出ると、あたりはもう暗かった。会場の周りには、まだたくさんの人がいる。中からは音が漏れてくる。俺は少しだけ振り返って、その大きな建物を見た。今日は確かにいつもと違う場所で働いた。
スマホを見ると、奈緒からもう一件来ていた。
「牛乳忘れないで」
忘れてない。俺は駅へ向かう途中のコンビニに寄って、牛乳と卵を買った。低脂肪じゃないやつ。ティッシュは、あったので、それも買った。
家に帰ると、奈緒がテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。牛乳あった?」
「あったよ」
俺は買ってきたものを冷蔵庫に入れた。牛乳、卵、それにティッシュは棚のほうへ。全部しまい終わったころ、奈緒が思い出したように言った。
「あ、武道館どうだった?」
「今聞く?」
「忘れてた」
俺は冷蔵庫を閉めて、少し考えた。何か気の利いたことを言おうとしたが、出てこなかった。
「でかかった」
「へえ」
奈緒はそれだけ言って、またテレビに目を戻した。俺は買ってきた卵を冷蔵庫のドアポケットに一個ずつ入れた。武道館に行ってきた人間がすることでもないな、と思いながら。

