逆向きのハンガー

「なんでこの服だけ、ハンガーの向きを逆にしてるんですか?」

受付の奥で仕上がった品を掛けていた美佐子は、新人にそう聞かれて手を止めた。

聞いたのは今月入ったばかりの遥だ。二十一か二十二だと言っていた。カウンター越しに、美佐子が今かけたばかりのワイシャツを見ている。ハンガーのフックが、ほかの品とは反対を向いている。

「これは……」

言いかけて、美佐子は少し詰まった。なんでだろう。逆に掛けているのは自分でも分かっている。ただ、なぜそうしているのか、あらためて聞かれると、すぐには言葉が出てこなかった。

「急ぎのやつだから」

とりあえずそう答えた。

「急ぎだと逆なんですか」

「うん。まあ、そう」

「なんでですか」

遥に悪気はない。分からないから聞いているだけだ。でも美佐子のほうは、なんでと重ねられると困った。急ぎの品を逆向きに掛けるのは、もう十年以上やっている。フックが逆を向いていると遠目でもすぐ「あ、これは今日中」と分かる。分かるのだが、それは説明というより、体が覚えているだけの話だった。

「見つけやすいからかな」

「決まりですか、それ」

「決まりじゃないよ。私が勝手にやってるだけ」

言ってから、そうか、決まりじゃないんだ、と自分でも思った。誰かに教わったわけでも、店のやり方でもない。いつの間にか自分で始めて、いつの間にか当たり前になっていた。

このクリーニング店で働いてもう十二年になる。店主は別にいて、美佐子はずっと従業員だ。この仕事が天職だと思ったことはない。かといって嫌でもない。毎日来て、預かって、仕上げて、渡す。それを長く続けているうちに、いろんな細かいやり方が自分の中にたまっていた。

それから遥は、美佐子のやることをよく見るようになった。

「なんで今の、ちょっとずらして置いたんですか」

美佐子は受け取り時に確認がいる品を、棚の端から少しずらして置く。ボタンが取れかけているとか、シミが完全には落ちなかったとか、そういう品だ。渡すときに一言添える必要がある。ずらしてあると、それを思い出せる。

「これは、渡すとき言うことがあるやつ」

「へえ。それも決まりじゃないんですよね」

「決まりじゃない」

遥はいちいち感心するでもなく、ふうん、と聞いて、また自分の作業に戻る。美佐子を持ち上げるわけでもない。ただ、素朴に不思議がる。その素朴さに、美佐子のほうがかえって、自分のやっていることを一つずつ見直すことになった。

数日後、遥が急ぎの品を、ハンガーを逆にして掛けていた。覚えたらしい。

ところがそのあと、遥は常連さんのコートも逆に掛けていた。

「それは逆じゃないよ」と美佐子は言った。

「え、急ぎじゃないんですか」

「急ぎじゃない。それは、取りに来るのが決まってる人のだから、こっちにまとめとくの」

美佐子は取り出しやすい一角を指した。常連の品はそこへ寄せておく。そのほうが、顔を見た瞬間にさっと出せる。

遥はしばらく考えて、それから聞いた。

「じゃあ、なんでさっきのは逆で、これは違うんですか」

美佐子はまた詰まった。急ぎは逆向き。常連はまとめる。自分の中では完全に別のことなのに、言葉にするとどっちも「分かりやすくするため」で、区別がつきにくい。

「……なんでだろうね」

つい笑ってしまった。何年もやってきて、いちいち理由なんて考えたことがない。体が勝手に振り分けているだけだ。それを人に教えるとなると、こんなに難しいものかと思った。

遥も「変なの」という顔で笑っていた。

その週の終わりごろ、美佐子が昼の休憩から戻ると、遥が一人で受付に立っていた。

昼過ぎは客が少ない。店主も奥に引っ込んでいる。美佐子が休みの間、遥が一人で回していたらしい。

店内をぱっと見て、美佐子は一瞬、違う、と思った。

仕上がりの品の並べ方が、美佐子のやり方とは違っていた。急ぎのハンガーは逆向きになっていない。代わりに、遥は付箋を使っていた。急ぎの品には黄色い付箋、確認がいる品には赤い付箋。フックの向きではなく、色で分けている。

美佐子は自分の逆向きのほうがいいと思ったが、しばらく見ていると、これはこれで、ちゃんと分かるようになっていた。遥が受け取りに来た客に応対するのを見ても、特に手間取っていない。付箋を見て、さっと品を出している。

問題なく回っていた。

美佐子はカウンターに入りながら遥の付箋をもう一度眺めた。べつに何も言わなかった。

翌日。

美佐子はいつものように、急ぎのワイシャツのハンガーを逆向きに掛けた。もう何も考えずに、手が勝手に動く。

隣にいた遥がまた聞いた。

「それ、何でですか」

昨日も見ていたはずなのに、と思ったが、遥はたぶん、美佐子がなんて答えるか聞きたいだけなのだ。美佐子は今度は少し考えてから言った。

「これはね……たぶん、私が見つけやすいから」

「たぶんなんですね」

「たぶん」

美佐子は笑って次の品を手に取った。その隣で遥は、自分の品に付箋を貼っていた。

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