出勤して机に着くと、キーボードの上に、小さな紙が一枚置いてあった。
「本日より座席変更のお願い」
部署の座席表が印刷されている。人数の調整で、何人かの席が入れ替わるらしい。和子は自分の名前を探した。新しい席は今の場所から斜め前に数メートル行ったあたりだった。
それだけ? と思った。
同じ部屋の、同じ島の、ほんの少し先だ。仕事の内容が変わるわけでもない。パソコンも電話も、そのまま持っていくだけ。周りにいる人も、だいたい同じ顔ぶれだ。どこに座ったって、大して変わらないだろう、と和子は思いながら、荷物をまとめて、新しい席へ移った。
ところが、座ってみると、意外と違った。
まず、見える景色が違う。今までは壁のほうを向いていたのが、新しい席からは、部屋のかなりの部分が見渡せる。それだけで、なんだか知らない場所に来たような気がした。
そして、今まで見えなかったものが、いくつも目に入るようになった。
朝、いちばん早く来る五十代の男性が、毎朝、窓を少しだけ開けてから席に着くこと。前の席からは、その窓は見えなかった。共有のプリンターが紙詰まりを起こすたびに、経理の女性が、何も言わずにさっと直していること。これも、今まで気づかなかった。
昼休みには、若手の一人が、自分の机の隅に置いた小さな観葉植物に、ペットボトルの水をやっていた。あの子が植物を育てているなんて、和子は知らなかった。同じ部屋に、もう五年もいたのに。
どれも大したことではない。職場のありふれた光景だ。ただ、席が変わっただけで、そういう小さなことが、急に見えるようになった。
とはいえ、新しい席には、不便もあった。
コピー機が、前より遠い。ちょっと印刷するのにも、席を立って歩かないといけない。それに、空調の吹き出し口が近いのか、午前中は少し寒い。後ろを人がよく通る通路に面していて、電話の音も、前の席より大きく聞こえる気がする。
正直前の席のほうがよかったなと早々に思った。
その前の席には、若手の男の子が座ることになっていた。午後、和子が通りかかると、その子は、眩しそうに手で顔をかばっていた。
「そこ、午後になると眩しいよ」と和子は言った。五年座っていたから、よく知っている。
「知ってます。昨日、すごかったです」と若手は苦笑いした。「もう、ブラインド下ろしました」
「そうそう。二時くらいがいちばんきついんだよね」
「ですね。教えてほしかったです、昨日」
和子は少し笑った。席には、長く座った人にしか分からない癖のようなものがある。あの席が午後眩しいことも、和子は五年かけて、体で覚えた。それが、もう自分の席ではなくなっていた。
数週間が経った。
新しい席にも、だんだん慣れてきた。コピー機まで歩くのも、気にならなくなった。午前中の寒い時間帯には、上着を一枚多く羽織ればいいと分かった。後ろを人が通るタイミングも、なんとなく体が覚えて、驚かなくなった。
不便だと思っていたことが、少しずつ、当たり前になっていく。窓を開ける人も、プリンターを直す人も、植物に水をやる子も、もう見慣れた朝の景色になっていた。
ある日、上司が、部署の打ち合わせのついでに言った。
「来月、また少し席替えするかもしれないんで、そのときはよろしく」
以前の和子なら、また面倒な、と思っただろう。実際、今回もやっぱり、面倒だな、というのが正直なところだった。せっかく慣れたのに、また荷物をまとめて動くのか。
ただ、それと同時に、次はどのあたりになるんだろう、と、ほんの少しだけ思った。窓際か、それとも入口の近くか。
まあ、決まってから考えればいい。和子はそう思って目の前の書類に戻った。
午後になって、和子の後ろを、誰かが通っていった。もう、振り向きもしなかった。

