朝、いつものように達也はエレベーターに乗り込んだ。
自分の部屋は九階だ。乗って一階のボタンを押す。扉が閉まって、数字が減っていく。八、七、と順に下がって――六でふいに止まった。
扉が開く。
誰もいなかった。
廊下には朝の光が差しているだけで、人の姿はない。達也は少し待って、誰も乗ってこないので、そのまま扉が閉まるのを待った。誰かが呼んだけど、待ちきれずに階段を使ったんだろう。そう思って、それ以上は気にしなかった。
次の朝も、ほぼ同じ時刻に乗った。
六階で止まった。
扉が開いて、やはり誰もいない。達也は「またか」と思ったが、それだけだった。急いでいたし、朝の集合住宅では、こういうことも珍しくない。押してから気が変わる人だっているだろう。
ところが、その次の日も、六階で止まった。
毎日ではなかった。何もなくそのまま一階まで下りる朝もある。ただ、止まるとなると、決まって六階だった。しかも、達也が朝に乗るときに限って、そうなることが多い。
さすがに、少し気になってきた。
怖いわけではない。誰もいない六階で扉が開いても、そこにあるのは見慣れた廊下と住人の表札だけだ。ただ、なぜ六階なのか、なぜ自分の乗る時間なのか、そこがぼんやり引っかかる。
ある朝、同じ階の女性と一緒に乗り合わせた。
達也は一階を押して、心の中で、今日はどうだろう、と思った。他人が乗っていると、なんとなく止まらない気もしたし、止まってほしい気もした。
エレベーターは、六階で止まった。
扉が開く。誰もいない。達也が黙っていると、隣の女性が、ごく普通の調子で言った。
「最近、ここよく止まりますよね」
達也は少し驚いた。
「そうなんですか」
「はい。朝、けっこう止まります。誰もいないのに」
自分だけが気づいていたわけではなかったらしい。女性も、べつに気味悪がるでもなく、日常の小さな不便くらいの口ぶりだった。扉が閉まって、エレベーターはまた下り始めた。
その日の帰り、達也は一階で管理人を見かけたので、なんとなく聞いてみた。
「あの、エレベーター、朝よく六階で止まるんですけど。あれ、故障とかじゃないですよね」
管理人は、点検の記録を思い出すような顔をして、首をひねった。
「故障の報告は来てないですねえ。この前も点検で異常なしでしたよ。誰か押してるんじゃないですか」
「誰か、ですか」
「六階の人が、乗ろうとして、やっぱりやめたとか。よくありますよ、そういうの」
管理人はそれで話を終えた。達也も、それ以上は追及しなかった。故障でないなら、まあいい。誰かが押しているのなら、それはそれで理由がある。
別の朝、六階で扉が開いたとき、廊下の奥から人が歩いてきた。
来た、と達也は思った。ついに、誰が呼んでいるのか分かる。歩いてきたのは、六階に住んでいるらしい中年の男だった。男はエレベーターに乗り込みながら、達也にというより、独り言のように言った。
「あれ。俺、押してないけどな」
「え」
「今、下りようと思って来たら、もう開いてたんだよ。誰か乗ってるのかと思った」
達也は思わず笑ってしまった。呼んだ主かと思ったら、この人も、勝手に開いた扉に驚いているほうだった。結局、誰が押したのかは分からないままだ。二人で一階まで下りて、それぞれ別の方向へ歩いていった。
それからも、六階停止は時々続いた。
達也はもう、すっかり慣れていた。六階で止まって扉が開くと、誰もいなくても、少しだけ待つ。誰か来るかもしれないから。たいていは誰も来ないのだが、待つのが癖になっていた。
一度、扉が閉まりかけたとき、廊下を走ってくる住人がいた。達也が反射的に開くボタンを押すと、その人はぎりぎり乗り込んで、「あー、助かった」と息をついた。
達也は、自分が止めたわけじゃないんだけどなと思いながら黙っていた。六階が勝手に開いてくれたおかげだ、とも言えない。
秋の終わりのよく晴れた朝だった。
その日、達也が乗ると、エレベーターは六階で止まらなかった。九、八、七、六、と、どこにも引っかからず、するすると一階まで下りた。
正しい動きだった。本来、こうあるべきなのだ。それなのに、達也はなんだか少し物足りなかった。今日は止まらないのか、と、拍子抜けするような気持ちで、エレベーターを降りた。
次の日。
また六階で止まった。
扉が開く。誰もいない。見慣れた廊下。朝の光。
達也は、それを見て、つい口に出していた。
「おはようございます」
誰にともなく、そう言ってしまってから、達也は自分で少しおかしくなった。誰もいないのに、挨拶をしている。
扉が閉まって、エレベーターはまた下り始めた。

