実家に着いて、喉が渇いたので台所へ行った。食器棚を開けて、あれ、と思った。
俺の青いコップがない。
子どものころからずっと使っていた、少し厚手の青いコップだ。前はこの棚の、一番手前の取りやすいところにあった。それがない。
「母さん、俺のコップどこ?」
居間にいた母が、少し考えて言った。
「上じゃない?」
食器棚の上段を開けると、あった。ただし、めったに使わない来客用の湯呑みや、ガラスの器なんかと一緒に、奥のほうに押し込まれている。俺は少し納得がいかなかった。手を伸ばさないと取れない。
「なんでこんなとこにあるの」
「そこ、使わないやつ入れとくとこだから」
母は当然のように言った。
俺が実家に住んでいたころ、このコップは一等地にあった。父は父の湯呑み、母は花柄のマグ、俺は青いコップとなんとなく決まっていた。誰が言い出したわけでもない。ただ、そういう配置だった。
それが、俺が家を出てから、少しずつ移動していたらしい。
考えてみれば、帰ってくるたびに場所が違った。最初は棚の端のほうだった。次に来たときは上段。その次は奥。今回はとうとう、来客用食器のエリアだ。俺のコップだけ、じわじわと辺境に追いやられている。
「なんか、俺のコップだけ追い出されてない?」
「使わないからよ。毎日使うコップを手前に置きたいでしょ」
「俺、使うけど」
「年に何回?」
聞かれて、答えに詰まった。二か月に一回か、三か月に一回。帰ってきたときにしか使わない。毎日使う母のマグや父の湯呑みを手前に置くのは、まあ、理にかなっている。
居間から父が顔を出して、コップを見て言った。
「なんだ、まだあったのか、それ」
「あるよ。俺のだろ」
「もう捨てたかと思ってた」
父はそれだけ言って、また新聞に戻った。俺だけがこの青いコップをやたらと大事な物みたいに扱っている。父も母も、べつにどうとも思っていない。
俺はなんとなく意地になって、コップを上段から下ろし、昔の一等地へ戻した。手前の、一番取りやすいところだ。
母が通りかかって、それを見て、すぐにまた上へ戻した。
「そこ、毎日使うの置くとこだって」
「俺のだって毎日使ってたじゃん、昔は」
「昔でしょ。今は使ってないでしょ」
「俺の家にもこういう定位置あるんだよ」
「あなたの家にはあなたが住んでるからでしょ。ここには住んでないでしょ」
言い返せなかった。その通りだった。俺はもうこの家に住んでいない。住んでいない人間のコップが一等地を占領しているほうが、たしかにおかしい。なんだか自分でもおかしくなって、少し笑った。
麦茶をそのコップで飲んでから、家の中をなんとなく見て回った。
昔、俺が座っていた食卓の椅子には、父の読みかけの本と、老眼鏡が置いてある。定位置になっているらしい。二階の元俺の部屋を覗くと、洗濯物が何枚か干してあった。物干し代わりに使っているようだ。玄関の靴箱の、昔俺の靴が入っていた段には、母のガーデニング用の道具が入っていた。
べつに、寂しいとは思わなかった。俺がいない分、この家の生活が、普通にそこまで広がっているだけだ。
夕方になって、そろそろ帰る時間になった。
俺は使った青いコップを洗って食器棚の前に立った。手前の一等地か、上段か。一瞬、迷った。
昔の場所に戻したくなる気持ちはあった。でも、明日からここで暮らすのは俺じゃない。俺は結局、母が最近置いている上段のほうへ、コップを戻した。来客用の器の、少し手前くらいに。
台所にいた母が、それをちらっと見た。特に何も言わなかった。上段でも、奥でも、母には母の置き方があるんだろう。次に帰ってきたとき、このコップがどこにあるのかは、分からない。
「じゃあ、また来るわ」
「うん。気をつけて」
俺は玄関を出た。青いコップは、たぶんまた、次までにどこかへ動いている。
「そういえば」と母が玄関先で言った。「この前、来客用の器出したとき、あのコップ邪魔だったのよね」
「え、じゃあまた動かすの?」
「どうしようかしらね」
俺は苦笑して、駅へ向かった。

