冷蔵庫の名前

冷蔵庫を開けると、プリンが一個だけ残っていた。

容器のふたには油性ペンで大きく「食べるな」と書いてある。息子の字だ。角ばった、少し乱暴な字。理沙子はそれを見てまたかと思った。

そのプリンは先週、理沙子が三個入りを買ってきたものだった。一つは自分が食べ、一つは夫が食べ、残りの一つがこれだ。誰も取り合ったわけでもないのに、いつの間にか息子の所有物になって「食べるな」の札までついている。べつに食べる気もなかったが、そう書かれると少しむっとした。

息子の翔太が食べ物に字を書くようになったのは、たぶん先月あたりからだ。

最初もプリンだった。次はペットボトルのオレンジジュースで、ラベルに「翔太」と書いてあった。その次は自分で買ってきたらしい菓子パンに「明日食べる」。冷蔵庫を開けるたびにどこかに息子の字がある。

家族なんだからそこまで書かなくてもいいのに。理沙子はそう思う。減っていたら文句くらいは言うだろうが、勝手に食べたりはしない。それなのにわざわざ札を貼られると、疑われているようで面白くなかった。

とはいえ人のことは言えなかった。

去年の暮れ、理沙子は自分用に買っておいた高いバターを夫に使われて、しばらく文句を言い続けたことがある。「あれは製菓用なの」と言っても夫は「バターはバターだろ」と取り合わなかった。あのときの自分も今の翔太と大して変わらない。

夕方、翔太が学校から帰ってきた。理沙子は台所で夕飯の支度をしながらなんとなく言った。

「プリン、誰も食べないから安心して」

「ん」

翔太はそれだけ言って自分の部屋へ上がっていった。会話にもならない。以前はもう少し喋る子だったが、高校に入ってからこんな調子だ。理沙子はそれを寂しいとまでは思わない。そういう時期だと分かっている。

その週末、理沙子は買い物から帰って少し思いついた。

自分で買ってきたヨーグルトのパックに油性ペンで「母」と書いてみた。翔太のまねだ。字を書きながらわれながら子どもっぽいと思ったが、なんとなくやってみたかった。

それを見つけたのは夫だった。冷蔵庫を開けて、しばらくして笑い出した。

「なんだこれ。お前まで書くのか」

「だって、書いておかないと誰かが食べるでしょう」

「誰も食べないよ、ヨーグルトなんて」

そう言いながら夫は面白がっていた。翔太のほうはその「母」を見ても特に何も言わなかった。ただ次の日、冷蔵庫の中の勢力図が少し変わっていた。

夫が缶ビールに「父」と書いていた。

それから数日で冷蔵庫の中はにぎやかになった。翔太のジュース、理沙子のヨーグルト、夫のビール。誰かのプリン、誰かのチーズ。庫内だけ見ていると、とても一つの家の冷蔵庫とは思えないほど境界線がはっきりしていた。

札を見ていると、翔太が甘いものをやたら確保していることも、夫が地味に高いビールを一人で飲んでいることも分かった。文句を言い合っているようで、庫内は前より正直だった。

ある水曜日のことだった。

前の晩に「母」と書いておいたプリン——奮発して買った、少し高いやつだった——が冷蔵庫から消えていた。空になった容器すらない。

やられた、と思った。あれだけ札を貼り合っておいて結局これか。理沙子は帰りの電車の中で、翔太か夫のどちらかだろうと考えて少し腹を立てた。書いてあっても食べるなら、この習慣に何の意味があるのか。

家に帰って冷蔵庫を開けると、同じプリンが二個入っていた。

「母」と書いた容器はなくなっていて、代わりに新しいのが二個。片方に付箋が貼ってある。夫の字だった。

「今日期限だったから食べた。二個買っといた」

理沙子は付箋をしばらく見ていた。腹を立てる準備をして帰ってきたのに行き場がなくなった。期限を気にして食べたのならまあしかたない。二個も買ってくることはないのにと思ったが、それは口には出さなかった。

その晩、夫は何も言わなかったし、理沙子も礼は言わなかった。ただ夕飯のあと、二個のうち一個を理沙子が食べて、もう一個には翔太が勝手に「翔太」と書いていた。

年末が近づいて寒い日が続いた。

ある朝、理沙子が冷蔵庫を開けると、いちばん手前にプリンが一個あった。翔太が昨日買ってきたやつだ。ふたには相変わらず「食べるな」と書いてある。角ばった、少し乱暴な字。

その横に理沙子が昨日買ったヨーグルトがある。理沙子は油性ペンを取って、そこに「母」と書き足した。もう慣れた手つきだった。

「食べるな」と「母」が並んでいる。以前ならこの光景に少しいらいらしたはずだが、今朝はべつに何とも思わなかった。ただの冷蔵庫の中だ。それぞれがそれぞれの楽しみに札を貼っているだけ。

ふと気づくと、庫内で名前が書かれていないのはビールだけになっていた。夫が「父」と書いていたはずのそれは、いつの間にか札が消えている。書くのをやめたのか、面倒になったのか。

理沙子は少し考えて、その缶に小さく「父?」と書いておいた。夫が気づくかどうかは分からない。気づいたら、たぶんまた笑うだろう。

冷蔵庫を閉めて、理沙子は朝の支度に戻った。

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