朝、洗面所へ行くと、ティッシュの箱に一枚だけ残っていた。
箱の口から、頼りなく一枚だけ立っている。健司はそれを見て、手を伸ばしかけて、やめた。べつに今、鼻をかみたいわけでもない。手はタオルで拭けばいい。すぐ隣には新しい箱が封も切らずに置いてある。それも開けなかった。
そのまま洗面所を出た。
夜、歯を磨きに洗面所へ入ると、ティッシュはまだ一枚残っていた。朝と同じ、一枚。妻の弓子も、日中どこかで使わなかったらしい。
健司の家では、昔からこうだった。
最後の一個だけが、妙に残る。ティッシュの一枚。トイレットペーパーの最後の一巻。麦茶ポットの、あと一口。菓子袋の最後の一個。どれも、なかなか減りきらない。誰かが使いさえすれば、すぐ終わるのに、最後の一つを前にして二人とも手を止める。
理由はたぶん分かっている。使えば、補充しなければならないからだ。空いた箱を捨てて、新しいのを出して、というあの一手間。それを引き受けるのが、なんとなく嫌で、二人ともぎりぎりで手を止める。
そんなルールを決めた覚えは、どちらにもない。ただ、長年のうちに、そうなっていた。
数日経っても、ティッシュは一枚のままだった。
さすがに気になって、健司は台所にいた弓子に聞いた。
「あのティッシュ、使わないの?」
「どれ」
「洗面所の。一枚だけずっと残ってる」
弓子は振り向きもせずに言った。
「あなたが使えばいいじゃない」
「いや、別に俺はいらないし」
「私もいらないわよ、今」
それで終わった。大した話ではない。ティッシュ一枚を、どちらが使うか。それだけのことなのに、二人とも妙に譲らなかった。
翌朝、健司は冷蔵庫を開けて、また気づいた。
牛乳が、パックの底にほんの少しだけ残っている。コップ半分にもならない量だ。捨てるほどでもないが、誰かが飲みきれば、パックを洗って資源ごみに出すことになる。だから、残っている。
見回すと、あちこちにあった。菓子の袋には、個包装が一つだけ。ハンドソープのボトルは、押せばあと数回分出るかどうか。どれも、最後の一つ手前で止まっている。
全部同じだ、と健司は思った。
夜、そのことを弓子に言うと、弓子はこともなげに答えた。
「だって、最後に使った人が補充するみたいになってるでしょ、うち」
「やっぱりそれか」
「今さら?」
弓子は笑った。決めたわけでもないのに、いつの間にか二人の間にそういう仕組みができていて、二人ともそれを避けて動いている。健司は、自分だけが気づいていなかったのかと思ったが、弓子のほうも、たぶん深くは考えていなかった。ただ、体がそう動くだけだ。
「じゃあ、やめるか。そのルール」と健司は言った。
「ルールっていうか」
「使った人が補充、じゃなくて。気づいたほうが補充する、でいいだろ」
「まあ、それでいいんじゃない」
その場では、そう決まった。気づいたほうが、さっと新しいのを出す。単純な話だ。これで、あの間抜けな一枚が延々と残ることもなくなる。はずだった。
翌日の夜。
洗面所に、空になったティッシュ箱が置いてあった。
最後の一枚は、どうやら日中に誰かが使ったらしい。箱は空だ。そして、その隣には新しい箱が、やはり封を切られないまま置いてある。
二人とも、空になったことには気づいている。新しい箱がそこにあることも、見えている。それでも、どちらも開けていない。気づいたほうが補充する、と決めた翌日に、これだ。
健司はしばらくその空箱を見ていた。ルールを変えても、結局、同じところで止まる。
仕方がないので、健司は新しい箱の封を切って、一枚引き出せる状態にした。パフッと、ティッシュが一枚立ち上がる。
台所にいた弓子が、それを見たわけでもないのに、絶妙なタイミングで言った。
「あ、開けてくれた? ありがとう」
「最後の一枚使ったの、そっちだろ」
「覚えてない」
覚えてないわけがない、と健司は思ったが、それ以上は追及しなかった。追及したところで、弓子は覚えてないで通すだろうし、自分だって、正直、最後に使ったのがどっちか、はっきりとは言えない。
新しいティッシュは、これでしばらくもつ。そしてまた、いつか一枚だけ残る日が来る。そのときはそのときで、二人とも、その一枚の手前で足を止めるのだろう。
健司は洗面所の電気を消して、居間へ戻った。

