朝、少し早い時間にビルへ着くと、エントランスの床を、女性がモップで拭いていた。
いつもの人だ。木村は軽く頭を下げた。女性も、モップを持つ手を止めて、同じように会釈を返す。それだけだ。言葉はない。木村はそのままエレベーターへ向かう。
いつからこうなったのかは、覚えていない。
木村は毎朝、出勤者がまだ少ない時間に会社へ来る。人の少ない朝が、なんとなく好きだった。その時間、エントランスやフロアを清掃しているのが、その女性だった。六十代くらいだと思う。最初のころ、一度か二度、「おはようございます」と声をかけたかもしれない。それがいつの間にか、目が合えば会釈するだけ、という形になっていた。
毎朝、必ず会うわけではない。日によっては、もう別の場所を掃除していて、姿が見えないこともある。それでも、木村は、その女性がいる朝と、いない朝の違いくらいは、自然と分かるようになっていた。
ある朝、女性がいなかった。
エントランスには、別の清掃スタッフがいた。若い男の人で、木村の知らない顔だ。木村は、いつもの癖で会釈しかけて、相手が違うことに気づき、そのまま通り過ぎた。べつに、どうということはない。清掃の人が交代することくらい、あるだろう。
そう思ったのだが、エレベーターへ向かう途中で、木村はもう一度、エントランスのほうを振り返った。やはり、いつもの女性ではなかった。
翌朝も、その男の人だった。その次の朝も。
女性は、いつもの時間に、いつもの場所にいなくなっていた。木村は、辞めたのかな、と思った。あるいは、担当が変わったのか。ただ、それを誰かに確認するような関係でもない。木村はその人の名前すら知らないのだ。
考えてみると、木村は、その女性について、ほとんど何も知らなかった。
名前も知らない。どこに住んでいるのかも、何年ここで働いているのかも知らない。知っているのは、冬になると少し厚手の上着を着ること、モップを使い終わると壁際にきちんと立てかける癖があること、そして、こちらが会釈すれば、必ず会釈を返してくれること。それくらいだった。
それでも、いなくなると、朝の景色が少し違って感じられた。
数日が過ぎた、ある朝。
木村がいつもの時間にエントランスを通ると、女性が、いた。
いつものように、床にモップをかけている。少し厚手の、見覚えのある上着を着ていた。木村は、少し驚いた。
目が合った。木村は会釈をした。女性も、手を止めて、いつものように頭を下げた。
それだけで、済むはずだった。ただ、その朝は、木村のほうから、少し口が動いた。
「お久しぶりですね」
女性は、少しだけ笑って、答えた。
「ええ。ちょっと、別のフロアの応援に行ってまして」
「そうだったんですね」
「はい。今日から、また戻りました」
それだけの、短いやり取りだった。木村は、それ以上は聞かなかったし、女性も、それ以上は言わなかった。応援がどうとか、詳しい事情は、知る必要もなかった。木村は「じゃあ」と軽く頭を下げて、エレベーターへ向かった。
翌朝も、女性はいた。
木村が会釈すると、女性も返す。その次の日も、同じだった。いつもの場所で、いつものように床を拭いている。木村は結局名前を聞かなかった。聞く必要があるとも、思わなかった。
ただ、朝、エントランスにその姿があると、木村は少しだけ、いつもの朝が戻ってきた気がした。
その朝も、木村は少し早い時間にビルへ着いた。
女性が、床にモップをかけていた。目が合う。木村は頭を下げかけて、その日は、少しだけ声に出した。
「おはようございます」
女性が、顔を上げて、答えた。
「おはようございます」
木村は、そのままエレベーターのほうへ歩いていった。

