「いつものですね」
レジの若い店員にそう言われて、村上は一瞬止まった。
いつもの、と言われても、自分が何を「いつも」買っている人だと思われているのか、村上にはよく分からなかった。だから曖昧に「はい」と答えた。店員はトングでパンを一つつかんで、慣れた手つきで袋に入れた。
受け取って外に出てから中を見た。表面に黒ごまのついた、丸いあんパンだった。
こんなに買っていただろうか、と思った。
仕事を辞めてから、村上はこの店にちょくちょく来るようになった。家から歩いて五分ほどのところにある、小さなパン屋だ。チェーン店ではなく、朝に焼いたものをその日のうちに売り切ってしまうような店で、昼を過ぎると棚がだいぶ寂しくなる。平日の午前中、することもないので、なんとなく足が向く。
その日その日で違うものを買っているつもりだった。カレーパンの日もあれば、クロワッサンの日もある。少なくとも自分ではそう思っていた。それがあんパンだと言われると、心当たりがないでもなかった。確かに、迷ったときにはあれを取る気がする。でも「いつもの」と言い切られるほどだったのか。
家に帰ってあんパンを食べた。普通においしかった。
次にその店へ行ったのは三日後だった。
棚を眺めていると、レジの奥からあの店員が出てきた。二十代半ばくらいの、痩せた男だ。愛想がいいわけでもないが、無愛想でもない。村上を見ると、少しだけうなずくような仕草をして、トングを手に取った。
村上がまだ何も言わないうちに、店員はもうあんパンの前に立っていた。
「あ……」
「いつものでいいですか」
「あ、はい」
つい言ってしまった。本当は今日はサンドイッチか何かにしようと思って来たのだが、店員がすでにトングをあんパンに近づけているのを見ると、いや今日は違うんです、と言い出すのがなんとなくためらわれた。袋に入っていくあんパンを、村上は黙って見ていた。
帰り道で、なんだこれは、と思った。
自分はべつにあんパンが特別好きなわけではない。嫌いでもないが、毎回それを買いたいわけでもない。それなのに、あの一言で流されて、今日もあんパンを持って帰っている。
しかも困ったことに、店員は完全に善意でやっている。村上のことを覚えていて、手間を省いてくれているだけだ。それに対して「いや、実は毎回それが欲しいわけでは」などと訂正するのは、なんだか相手の親切を無下にするようで、言いづらい。
翌週、村上は別のパンを買うと決めて店に向かった。
決めて、というのが自分でもおかしかった。パンを一つ買うだけのことに、家を出る前から段取りを考えている。棚に着いたらまず自分でトングを取って、さっさとサンドイッチを挟んでしまえばいい。店員が何か言う前に。
ところが店の前まで来て、村上は足を止めた。
ガラス越しに、あの店員がレジに立っているのが見えた。ほかに客はいない。今入っていけば、また流れであんパンになる気がした。村上は少し離れたところで、意味もなくスマートフォンを取り出して眺めるふりをした。しばらくして別の客が二人ほど入っていくのを確認してから、そのうしろについて店に入った。
作戦としては悪くなかった。ほかの客の相手をしている隙に、自分でトングを取れる。村上は棚の端にあるサンドイッチのコーナーへまっすぐ向かった。ハムと卵のやつを一つつかんで、そのままレジに並んだ。
前の客が会計を終えて、村上の番になった。
トレーに載せたサンドイッチを見て、店員が言った。
「あ、今日はそっちなんですね」
それだけだった。
「はい」と村上は答えた。店員はサンドイッチを袋に入れて、金額を告げた。何を意外に思う様子もなく、ただ袋に入れて渡してきた。
村上は釣り銭を受け取りながら、拍子抜けした。
あんなに考えていたのに、店員のほうは何も気にしていなかった。あんパンでもサンドイッチでも、この男にとってはどちらでもよかったのだ。「いつもの」というのも、たぶんその日その日で村上がよくあんパンを取っていたから、軽く言ってみただけだったのだろう。深い意味はなかった。
村上のほうだけが、勝手に大ごとにしていた。
店を出て、少し歩いてから、なんだか笑えてきた。数週間、あんパン一つに振り回されていたのが、われながら馬鹿らしかった。ひとりで作戦を練って、店の前で引き返しかけて、他人のうしろに隠れて店に入って。
家に帰ってサンドイッチを食べた。ハムと卵は、あんパンよりは少し軽い感じがして、これはこれで悪くなかった。
その次の週も、村上はまた店へ行った。
棚を見て、その日はカレーパンにしようかと思った。少し迷って、結局あんパンも一緒に取った。両方買えばいいだけの話だった。レジに持っていくと、店員は「二つですね」とだけ言って袋に入れた。
村上は釣り銭を受け取り、袋を提げて外に出た。春の日差しがまだ少し眩しかった。

