朝の七時半、いつものコーヒースタンドに入ると、今日もあの人がいた。
私の一つ前に並んでいる、五十歳くらいの男の人。今日もいる、と心の中で思う。べつに待ち合わせているわけじゃない。ただ私が毎朝この時間に来ると、たいていこの人が一つ前に並んでいる。それだけのことだ。
話したことはほとんどない。会釈すらしない。ただ、顔は知っている。
駅前の、テイクアウトがほとんどの小さな店だ。カウンターが一つあって、朝はいつも数人が並ぶ。私はここでコーヒーを買って、それを持って会社へ向かう。もう一年以上、そういう朝を続けている。
男の人の注文は、いつも同じだ。
「ホットのカフェラテ、Sで」
低い声で、そう言う。私はもう、その注文を覚えてしまっている。カフェラテのSサイズ、ホット。毎朝聞いているから、耳が勝手に覚えた。
たぶん向こうも、私の注文を覚えている。私はいつもドリップコーヒーのMを頼む。一度、私が注文する前に、店員さんが「ドリップのMですね」と言いかけたことがあって、そのとき前にいた男の人が、ほんの少しだけこっちを振り返った気がした。気のせいかもしれない。
それでも、私たちは話さない。
会釈もしないし、目も合わせない。ただ毎朝、同じ時間に、同じ順番で並んでいる。それが一年以上続いていた。
ある朝、その人がいなかった。
私が店に入ると、いつも一つ前にいるはずの人がいない。列には知らない人が並んでいる。私はドリップのMを頼んで、いつもどおり会社へ向かった。ただ、少しだけ、なんというか、拍子が狂った感じがした。
翌日もいなかった。
その次の日もいなかった。
三日続けていないと、さすがに少し気になった。とはいえ、心配というほどでもない。名前も知らないし、どこの誰かも知らない。店員さんに「あの人どうしたんですか」と聞くのも変だ。ただ、最近見ないな、と思うだけだった。
いなくなって四日目くらいの朝。
私がカウンターの前に立つと、店員さんが「はい、ホットのカフェラテ――」と言いかけて、カップに手を伸ばした。
「あ、それ、私じゃないです」
私が言うと、店員さんは「あ」という顔をして、それから笑った。
「すみません、間違えました。ドリップのMですね」
「はい」
たぶん、無意識だったんだと思う。この時間にこの並びで、と体が覚えていて、つい先に手が動いたんだろう。おかしかったのは、私だけじゃなくて、店員さんもあの人を「いつもの人」として覚えていたことだ。あの人が消えた分の注文が、間違って私のところに来た。
私はコーヒーを受け取ってなんだか一人で少しおかしかった。
それから数日して、その人は普通に戻ってきた。
いつもの朝、いつもの時間。店に入ると、私の一つ前に、あの人が並んでいた。特に何も変わったところはない。出張だったのか、休みを取っていたのか、それとも別の理由か。分からないし、聞くつもりもない。ただ、戻ってきた、と思った。
その朝、面白いことがあった。
男の人がカウンターに着いて、まだ何も言わないうちに、店員さんがもうカップに手を伸ばしていた。
「ホットのカフェラテ、Sですよね」
男の人は一瞬止まって、それから小さく笑った。
「……はい」
数日いなかったのに、店員さんはちゃんと覚えていた。男の人も、覚えられていたことがおかしかったんだと思う。私も、後ろでつられて少し笑ってしまった。
コーヒーを受け取って店を出るとき、男の人が、ドアのところで少しだけこっちを見た。
「今日は冷えますね」
「そうですね」
それだけだった。天気の話。本当に、どうでもいい一言。でも、一年以上並んでいて、初めてまともに交わした言葉だった。男の人はそのまま駅のほうへ歩いていって、私は反対側の会社へ向かった。
次の朝も、私は同じ時間に店へ行った。
あの人は、今日も私の一つ前に並んでいた。「ホットのカフェラテ、Sで」といつもの注文をして、私はその後ろでドリップのMを待つ。名前は知らない。何をしている人かも知らない。
ただいつもの人がいつもの場所にいた。
私はコーヒーを持って、いつもの角を曲がって会社へ向かった。

